エレン・ボール ー 追憶 ー

アメリカでの母であり姉でもあった、私の愛すべき永遠の貴婦人エレンが亡くなった。
未だ父の死の自覚さえ曖昧なのに、愛すべき人たちが次々とこの世を去る辛さは耐え難い。

 

エレンとは、何と多くのひと時を過ごしたことだろう。
ストリート写真や都市開発プロジェクトの撮影、週末の画廊巡り、食事やお茶、書店、ビーチ
エレンの家で、よく彼女の夫であるイアンの手料理とワインを楽しみながら、のどかな午後を過ごしたこともあった

彼女からは多くのことを学んだが、作品を引き立たせる為のレセプションでの装いは白黒が好いと云う認識も身についた。
フォトエッセイ『やさしい時間』にも記したように、壁に飾られたリチャード・アヴェドンが撮影したと云う彼女のポートレートさえ彼女は自ら話すことはなかった。
彼女が名門ファミリーの一族で、同期のロバート・レッドフォードとプロダクションを起こした女優云々、そのような華やかな過去や、飛行機はファースト・クラスしか乗ったことがないなど、、、私が識ったのは、彼女と出会って一年後のことである。
彼女はとても謙虚で、容姿同様心もチャーミングな女性だったから。

 

シルバーが大好きで、銀色の大きなブレスレットやペンダントがよく似合った。
高価な貴金属やブランドの衣類にも大して関心がなく、個性ある装いを好んだ。
『ちえ子 見て! これね、Kマートで買ったのよ』とおどけて見せたりした。
人生にとって何が大切なのか、彼女が女優時代に学んだように、彼女は主役と脇役の真髄を熟知していたのだろう。

 

けれども、その育ちの良さ、知性と気品あふれるさりげない所作、香るか香らないかの香水の嗜みなど、匂いたつ華があった。
自然と人を惹きつける芍薬のような艶やかさと併せ持った庶民感覚、それこそがエレンだ。

 

残念ながら、私はマイアミを離れて以来、彼女に再会する機会を失っていた。
彼女が、何度も何度も、彼女の大好きな古巣ニューヨークを案内するから、一緒に行こうよと誘ってくれたのに。。。
このような永遠が来ることを想像だに出来なかった愚かな私である。
彼女の前夫の兄宅で長年働いているチリ人のお手伝いさんがとてもフォトジェニックで、
是非ともハッセルで白黒写真を撮りたいと思っていた私だった。

エレンは、音楽家の息子が住むウイーン、古巣のニューヨーク、ドキュメンタリー・フィルム作家の娘の拠点テキサスと、旅行する度、いつも旅先から絵葉書が届き、撮影のメモにと美しいノートをお土産に持ち帰ってくれた。
誕生日のプレゼントに、エレン自らが撮り、そのプリントを貼って作ってくれた写真集のタイトルは『ちえ子とセントラル・パーク散歩』
彼女の想いが今更のようにに伝わり、心に刺さる。


彼女が大好きなテニスも幾度か誘われたことがある。
私が住む住宅地は、住人が自動的にクラブメンバーになっており
プール、テニスコート、ゴルフコース、ジム等が目と鼻の先にあった為、
平日は忙しく、オフの時についつい手近なところで済ませていた。
彼女の家まで車で30分もあれば行けたのに、今となっては悔やまれるばかりだ。
しかし、私が他州に引っ越した後、膝を痛めたエレンがテニスも出来なくてなり自宅にいる時間が増えたとの知らせ。
ボーリングが最大の趣味である日本にいる私の母が、激痛で整形外科通いだったものの
グルコサミンとやらが効き、通院も不要になったとのこと。
それを思い出し、日本からサプリメントを取り寄せエレンに送ったところ、奇跡だと喜ぶほど効果があったそうだ。
けれども、病気が進行して連絡が取れなくなり、彼女は再びラケットを握ることはなかったようである。

カメラ、テニス、アート、クラシック音楽、選挙運動、愛犬の散歩、またアーテイストが多く住む地域でのその活発な交流等々、日々生き生きと活動していた彼女にとって、
自宅に鎮座することを余儀なくされた時間は、さぞかし針の音も虚しく退屈であっただろうと思われる。
刺激と会話が極端に減少した環境とアルツハイマーの進行は、少なからず影響があったのかもしれない。

私にはあの日の彼女があまりに鮮烈で、決して色褪せることはないだろう。
だから、お別れを受け止める努力はしない。
エレンは、永遠に私と共に生きているから。
『ちえ子、ママの言うことを聞きなさい!』おどけた彼女の声が今も聞こえる。

 

 

 

 

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